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八右衛門コレクション

甘楽社事績

更新日:2016/02/13

甘楽社事跡

甘楽社事跡

目次
甘楽社事跡概要
甘楽社明治十三年から四十一年生糸生産額表
甘楽社郡市別生産額表(最近五年平均)
甘楽社各組生産額表(最近五年平均)

甘楽社全景(写真)

甘楽社事跡概要
明治初年に於ける我国製糸の業は改良未だ全く其の緒に著かす粗製雑駁にして価格も亦従て低廉加ふるに販路の渋滞甚しく看すゝ商機を逸するあり故に本郡内の有志者は之を憂ひ一町若しくは一村落一致集合の製糸揚返所を設け彼我相戒めて粗製濫造の幣を絶ち而カモ品位を一斉にし販路の渋滞を避けんとせり爾来所在町村工場が改良製糸の端緒を開き漸次其歩を進め来れり然れドモ町村個々割振の工場中動ともすれは彼我の経営区々にして販路の渋滞依然とし且つ価格平衡を保たず常に之が救済に苦慮する所ありき
時に三井物産会社員磯清五郎氏富岡町に来り各町村工場の趣旨を讃し当業者を会し供に所在工場の利便を唱導する所あり而して氏自ら一臂の力を此に籍すを誓ふ
氏の為さんとする所は即ち為替金の取組みを便融にし以って販路に向て顧ベン要せざる商略是れなり
之を聞きて町村各工場の有志者相感する所一轍に帰し所在打て一団と為り協和合同忽ち一社を組織し社則を案し役員を選み北甘楽郡富岡町に之を創立し名けて北甘楽社製糸会社と称す是れ実に明治十三年七月なり
当時同盟したる町村は富岡町、七日市町、下仁田町、宮崎村、丹生村、菅原村、磐戸村、砥澤村、小澤村、野上村、馬山村、小幡村、上野村の三町十ヶ村にして社員六百廿人役員は社長古澤小三郎氏、会計係黛治邦氏、製糸総括方松浦水太郎氏、品等検査役福澤常五郎氏、等にして同年十月古澤社長辞任し黛治邦氏後任事を執る此年生糸取扱高二千三百四拾九貫価格十一万五百有余円にして横濱同伸会社を介し米国直輸出と為す然れドモ当時猶ほ当社の精神を猜疑するもの少なからす為めに組の去就常なく幾多の変遷を生したりしが当社常に当初の方針を貫徹するに努め漸次販路の拡張するに伴ひ各地より加盟を申込むもの年と共に増加し明治十七年南蛇井組加盟す
同十八年斉藤正次郎氏社長と為る此年高田、共進、菅根、高瀬、田篠、白倉、真栄、黒岩の八工場加盟し翌十九年秋畑外十六組の加盟あり合計三十九組に達し創立以来日猶ほ浅しと雖も此年生糸の取扱高壱萬貫を超へ価格三拾四萬円に上れり
然るに同二十年に至り当社が同伸会社を介して直輸出せる米国製糸業の不振甚だしく経済界に一大打撃を受け金融渋滞ついに売上金の不着を来し全年間の経営上少なからざる不足をみるの災厄に遭遇す同廿三年斉藤正次郎氏職を辞し同廿四年鈴木城作氏代て社長と為り社業の改良発達に努め同廿五年山口太三郎氏を副社長に推す同廿六年に至り組織六十二の多きに達したりしが改良事業に要する諸般の事情を生じ馬山組外廿二組分離して一社を組織す今の下仁田社是なり
此年五月降霜激甚にして桑葉の被害甚だしく為めに蚕児飼育に非常の困難を来し成繭平年の二三分に止まりしと雖も夏秋二期の飼蚕増収の為め製糸産額に於て甚だしき差違を認めざりし
同廿七年に至り米国経済界の恐慌に鑑み販売の方針を改め出来高を折半し一半を内地に於て販売し一半を米国輸出とす
同廿八年に至り当社継続年限満期に付更に向ふ十ヶ年継続の事とし北甘楽製糸会社を甘楽社と改称す
同廿九年山口太三郎氏社長と為り茲に米国輸出の不利なるをみとめ横浜に於て競争販売となし貿易頗る活気を呈せり
同三拾年に至り戦後経営の結果当社に営業税を課せんとせしも当社は製糸改良事業を以って立ち普通営利的会社と自ら其性質をを異にするを以って免税せらる可からざる陳情を要し書面を具して農商務大蔵の両大臣に捧呈せり当時古荘本県知事も亦之を賛助し為めに結局課税以外のものに帰しついに免税となる
此年森平喜十郎氏副社長と為る翌三十一年には組織六拾四に達し爾来事業益々発展し社内狭隘を告げしを以って本社新築の議熟し尋ねて諸般の準備を了し六月を以って工事に着手し翌三十二年四月竣工したるを以って同月三日新築落成式を挙行し仮社より移転す此年社則を修正し社員を甲乙丙の三種に分ち従来年度を三期に分ちありしを四期に分かつ
同三十三年及び三十四年に生糸売上金割合法を修正す従来当社の生糸鑑別法は各組に検査員巡回せしめ之が等級を付すせしめしが斯くては生糸鑑別法一定を欠くの虞あるを以って三十七年より巡回検査の制を廃し各組にて揚辺せし生糸を本社に蒐集し検査することに決し之が為め又工場の狭隘を来し本社へ増築を加へ且つ三十八年には生糸荷受所を多野郡藤岡町に分工場を埼玉県本庄町に設立せり此年碓氷下仁田甘楽の三社合併論起ろ時の吉見本県知事斡旋の労を採りしも時機未だ至らず遂に延期と為る本社設立以来其販路は専ら米国なるにも拘らず我製産生糸は需用に於て如何に消費し去るやを知らざる将来発展の途にあらざるを感じ明治四十年森平副社長を米国に派遣して生糸需用の情況を調査し大に得る所あり是が為め荷造方法其他に一大改良を加ふ猶同年八月工場監督黛治良氏を同国へ三ヶ年間滞在の予定を以て派遣し之れが実地調査を為さしむ此年二本揚りの防止を為さんが為日夜是が矯正に腐心しついに其策を案し各揚返所の振手を下振に改造したるに大に其効うぃ奏したりしも未だ全く其弊を一掃するに至らず爾来社員の熱誠なる経営と当事者の指導其宜しきに適すると相俟って改良の実挙り一般の信用愈強固となり海外の需用に日に多きを加へ今日の隆盛を祝するに至る茲に於て社長山口太三郎氏克く社業に尽スイせし功労に依り明治四十年一月大日本蚕糸会総裁宮殿下より金賞杯を賜ひ猶同四十一年十月緑綬褒章授けらる
今や組織百拾五組に達し其区域、群馬、埼玉、栃木、千葉、岩手、の五県下に渉り社員二万八千百○二人算するに至るれり昨四十一年度に於て取扱ひたる糸量五万四千七百有余貫此価格三百八万五千有余円にして是を創立当時に比するに二十倍以上の多きに達し現今に於ける日本製糸全額の三十分の一を占むるに至れり当社創立より既往三十年間の事業戮力切磋の労を積み克く改良進歩の実を挙げ信を海外に博するす得たるは洵に歓喜に堪さる所なり依って茲に本年四月本社設立三十周年記念とし一大祝典を挙げ併て生糸繭の共進会を開催し益々斯業の改良発達に資せんとす希くは社員諸氏愈愈奮励以って斯業の発展に努め国家に貢献せられん○を

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