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有限会社 黒澤呉服店(神流町)が運営しています

八右衛門とは?

右のサインは、正徳6年(1715年)に書かれた神流町万場宿黒澤家古文書に記されているものです。

黒澤八右衛門とは、一体どんな人物なのでしょうか?

 黒澤八右衛門は、今から約300年前の群馬県(上野国)に実在した大名主です。戦国時代の武将・武田信玄に仕えた武田二十四将の一人、小幡昌盛の流れを汲み、山中領下山郷(旧万場町地域)を治めたといわれているのが大名主・黒澤八右衛門高義 です。

 八右衛門は、元禄3年(1690年)に道造り・橋かけ制度の改善を行いました。そして元禄12~15年(1699~1702年)には下山郷大名主として元禄検地を受けることとなります。その際に大きな問題が起きます。上野国(群馬県)と武蔵国(東京都・埼玉県)の国境を、「峰とするか、川とするか」で幕府と意見が衝突したのです。当時の下山郷では東西を流れる神流川をまたいで多くの人々が行き交い、暮らしていました。八右衛門は『分村することは、子や孫の代まで困る』と主張し、下山郷内の二十二ヶ村の総代名主として、江戸へ往来し、幕府に『国境峰切り』を嘆願し、山中領の村々が分かれるのを防ぎました。

 その後、宝永4年(1707年)には、八右衛門は八右衛門用水堰を完成させました。用水堰が出来るまでは下山郷万場村の人々は、水不足に頭を悩ませていました。そこで八右衛門は、私財を投げ出し、全長約1kmに渡る用水堰の造成を計画しました。用水堰造成計画は村人全員の賛同を得て取り掛かることになり、村人達は労力を惜しまず力を合わせて工事に参加し、完成したときはたいそう喜び合ったそうです。用水堰は今ではコンクリートの下にはなってしまいましたが、万場宿の町並みを流れ続けています。

 八右衛門が仕えた武田信玄は、政治家としても秀で、釜無川に信玄堤を築いて川の氾濫を抑え、新田の開発を可能にし、今でも甲府の人々に慕われています。黒澤八右衛門高義は、その武田信玄の遺臣としてその知識と才能を、大名主として発揮し郷土に光をかかげたのでした。

 

 参考 黒澤建広家古文書、『郷土に光を掲げた人々』 群馬県教育委員会 1985.3